2008/04/01

清澄白河 散策 3月27日(木)

今回の東京訪問を機に、私の中で清澄白河と門前仲町への興味が急上昇しました。今までも清澄白河のコンフォートホテルに滞在していたのに、この街の面白さに気付くのが少々遅すぎた感を抱かずにはいられません。

この日は、先ず清澄通りを北に暫し歩き、『高橋』を渡って小名木川沿いに西へ歩を進めました。私の全く当てにならない予想では、そのまま行くと『芭蕉庵史跡展望庭園』に着く予定だったのですが、やはり、辿り着くことは出来ませんでした。その代わりと言ってはなんですが、青い大きな橋を見ることが出来ました。この橋について帰宅後に調べると、名前を『萬年橋』というそうで、遡ること江戸時代には隅田川を望み、富士山を眺められる名所だったとのことです。葛飾北斎の『富獄三十六景』や、歌川(安藤)広重の『名所江戸百景』などに描かれているそうです。今では富士山を望むことはできませんでしたが、散歩道の桜は満開、とても美しく咲き誇っていました。


その後は、『芭蕉庵史跡展望庭園』に行けなかったこともあり、あっさりとUターンして清澄通りを南下しました。そして、松平定信の墓がある『霊厳寺』に行きました。「松平定信…江戸時代に活躍した人…」との認識は流石にありましたが、日本史を勉強していながら、その詳細についてはスッカリ頭から抜け落ちているという、全くもってお恥ずかしい現実と向き合うことになりました。そこで、暫しおさらいをすることに…。

松平定信公は江戸時代の大名で、陸奥白河藩の第3代藩主の任務についていました。藩主就任中である天明3年(1783年)は、有名な天明の大飢饉の最中にありました。その折、松平定信公は自らが率先して倹約に努めた他、領民に対する食料救済措置を迅速に行った為、白川藩では飢饉による死者は出なかったと言われているのだそうです。この際の手腕を買われ、田沼意次失脚後の天明7年(1787年)に、幼い第11代将軍徳川家斉のもと、老中首座、将軍補佐を務めることとなりました。そして、祖父徳川吉宗の享保の改革を手本にした、有名な寛政の改革を成し遂げるに至りました。

『霊厳寺』でお参りを済ませた後、近くのスーパーマーケットに寄り、水とおやつを仕入れて、ホテルに戻りました。この日の散策は、江戸歴史散歩、といった具合になりました。

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