久し振りにダウンダウンの「まっちゃん」の本を読みました。「おもろい」のに加え、興味深い内容でした。一冊目の『好きか、嫌いか 松元人志の二元論』の「あとがたり」にて、どうしてこのタイトルで本を出版したのかが書かれていました。とても興味深いものでしたから、その一部を引用させていただきます。
-中略-
最近みんなが「微妙…」と表現することが、ずっと気にかかっていたからなんです。「微妙…」というのはつまるところ「そんなに好きじゃない」ということなんですね。でも、好き嫌いを言うのが、なぜかためらわれて、曖昧にするほうがかっこいいみたいになってしまっている。でも、こういう否定のしかたって「エネルギーがない」感じがしてイヤなんです。なんだか同じ場所に停滞している感じがする…。「好き」か「嫌い」を言うためには、それなりの意見を持たなくてはいけない。理由が問われるからです。責任が生じてくるからです。
-中略-
私もかなり以前より「びみょ~」という言葉に疑問を感じていました。ですから、なるべくならばこの単語を使わないように意識してきました。自分の意見を曖昧にしてしまうような気がしたからです。上記の「あとがたり」を読んで、私の漠然と持っていた思いが明文化されており、霧が晴れるような感覚を覚えました。
「微妙」と言う単語には「一言では言い表せないほど細かく、複雑なさま。また、きわどくてどちらとも言い切れないさま(Yahoo!辞書)」との意味があります。確かに世の中の現象には、これに当てはまる事柄もあります。しかし、何でもかんでも「びみょ~」で片付けたくはないと思うのです。本当に「どちらともいえない」場合には、そこにも理由が存在するでしょうから、これを説明できるわけで「びみょ~」ではなく「微妙」と言えると思うのです。
ただ、まっちゃんも書いておられるように、自分の考えを明確に示したり、意見や理由を持つにあっては、当然、これに責任を持たなくてはいけません。これは思いの他、大変な作業だと思います。物事に対して常に興味を持って対応する好奇心を持ち続けるだけでなく、自分自身へのフィードバックもしていかなくてはなりません。こ大袈裟かもしれませんが、己と向き合って己を知る作業とも言い換えられるのではないかと思うのです。自分を知るという過程には、良いところを見つけるのと同じくらい嫌なところも発見するでしょうから、自ずと自己肯定感は低下し、辛い思いをすることは必至と想像します。それでも、この様な作業無しには自分を知ることは困難でしょうし、また、ありのままの自分を認めることも難しいと思います。
「びみょ~」と明確に意見を示さないことで相手に判断を委ね、その場をすり抜ける、これはとても簡単なことだと思います。そして、大したリスクを背負うことなく「ユカイ」に人生を生きられるのかもしれません。しかし、私は他の誰でもない自分自身として「愉快」に人生を生きたいと思っており、困難なことと理解しつつもやはり「好き・嫌い」を明確に言える人間でいたい、と思います。正確に言うと、思っていました。そして最近では、「好き・嫌い」を言えることに加え、好きでも嫌いでもない「微妙」な部分、つまり白でも黒でもなく灰色の部分も、意味を伴わせて持てる余裕の大切さを実感しています。
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