久しぶりに小栗左多里さんの本を読みました。『ダーリンは外国人』を手にしてから、このシリーズにはまっています。このシリーズの本は全部持っていて、時 々読み返したくなるのですが、残念ながら現在は私の実家にあります。父親が興味を持っていたらしく、貸して欲しいと言ったので、持って行ったのですが、それからだいぶん過ぎた今も、未だ私の手元には 戻ってきていません。今度、実家に帰ったら持って帰ってこよう。
さて、この「ダーリンは外国人シリーズ」(と呼ばせていただきます)、私が何故、こんなにはまってしまったのか。大まかな内容を言うと、「国際結婚」をした小栗左多里さんとトニー・ラズロさんの日常生活が描かれています。「国際結婚」ならではの”おもしろネタ”とでも言うのでしょうか、文化の違いから生じるズレが面白おかしく書かれています。というように、マクロな視点でも読むことができます。
これは、私の勝手な解釈かもしれませんが、私は小栗左多里さんの本意は、実はトニー・ラズロさん(たまたま日本人ではなかった)と、小栗左多里さん(たまたま日本人だった)との結婚生活を書いた、つまり、国際という視点を1人の人×人といミクロな視点で描こうというところにあったのでは…と思うのです。
同じ日本人同士の結婚だと、マクロな部分では同じ民族、同じ文化を背景とした二人ですから、どうしても類似点が目立つため、差異に眼が向き難いと思います。しかし、実は育った環境が異なることで、二人とも全く違う文化を持ち合わせていると考えることもできると思います。この様に考えると、異なる二つの文化同士の交流が行われるのですから、ミクロな国際交流とも言えなくはない、と思います。つまり、同じ日本人同士だって、ミクロに考えれば、ダーリンは外国人なのかもしれない、と思うわけです。
私のお世話になった先生方、大切な友人の中に、ダーリンが本当に外国人(どうやって言うのが適切なんでしょう)の方がおられます。その皆さんからは、私の考え方がどのように聞こえるのでしょうか。私は結婚以前より、この様な考え方をしていましたが、ham君と結婚してよりこの考え方が強くなったように思います。ham君を見ていると、「ほほう、こんなこと考えているのか」、「こんな考え方(やり方)もあったのか」と、私の持っていなかった新しい視点が満載、カルチャー・ショックもしばしばです。私が想像するに、ダーリンが本当に外国人の場合、もちろん差異は私がham君との結婚生活で感じるよりももっと明確に現実的に、また具体的に現れるのではないかと思います。類似点に関しては、ダーリンが日本人である場合以上に明確に、また新鮮に更なる親近感を持って感じられるのではないでしょうか。お互い日本人同士で結婚していると、ついつい見過ごしてしまうような日常の一コマからも、異文化を感じたり、考えさせられたり、学んだりといった活動が多いのではないかと思います。
そこまで明確なものではないとは思いますが、日本人同士の結婚でも知らず知らずの間に、そういう瞬間はあるのだと思います。だって、全然違う人と結婚しているのですもの。違いを目の当たりにして、ショックを受けたり、時には喧嘩に発展したり、結婚ってとても体力と精神力のいることだと思います。でも、相手から見せられる新たな視点によって、どんどん自分が開拓されていく、とてもステキな関係だと思うのです。願わくば、自分も相手にとってそういう存在でありたいです。
小栗左多里さんの本を読むと、こういうことを考えています。
4 件のコメント:
小栗さおりのマンガは私も大好きです。絵もかわいくて、トニーさんがまたいいキャラで笑っちゃうし。
結婚て本当にゴールじゃなくて始まりなんだなーと感じさせるよね。
>しもなおちゃん
そう!トニーさんのキャラがかなりステキよねー。密かにファンです。
結婚って、すごいことよね…よく考えると、と思うのは私だけかな?
遅ればせながら、私もコメント!Akouちゃんが上の画像で紹介した巻は残念ながら未読ですが、私もしもなおちゃんが『ダーリン…』を送ってくれたおかげで、このシリーズのファンになりました。そうそう、同じ日本出身でも、母語が日本語でも、育った家庭も、ものの見方や行動パターンも人それぞれだから、ふたりの人間が家族として一つ屋根のしたで暮らすとなると、本当に毎日が<異文化コミュニケーション>なんですよねぇ。赤の他人だったり、知り合いでも腹を割って話せるような近さにはない場合、ズレを感じても疑問や不快感を飲み込んでしまってフラストレーションをためたり、それ以上の歩み寄りを諦めてしまったりすることが多いのではないかと思うけれど、その分夫婦は(夫と妻が双方にそれを望めばのことだけれど)その違いをディスカッションしたり、妥協点を探ったりできるような距離感にあるような気がします。実の親子や兄弟の場合、「血がつながっている家族のはずなのに、どうしてこんなことぐらいわからないわけ!」と癇癪を起こしてしまうような場合でも、結構落ち着いて話し合いができたりしますし。私も毎日の家庭生活から学ぶことが多いです。
>yumiちゃん
夫婦って、本当に不思議な関係だなぁ、とつくづく思います。元を正せば”他人同士”なんだもんね。
ひとまとまりの社会の中には、色々な社会(集団)があるけれど、夫婦って一番小さな社会の単位だね、と実家の母と話していたことがあります。
そう、yumiちゃんが書いているように、同じ他人でも、そこまで近い関係で無い場合、割り切ってしまえることができるし、逆に血の繋がりのある家族だと、頭に血が上ることもあるよね。ただ、血の繋がりのある家族の場合、例えば親子だったりしたら、結局”親子”なわけで、なんだかんだ文句をいいつつも、いつのまにか元の鞘に戻っていることも多いのではないかなと思います。というか、そういう力があるのだろうね、家族には。
ところが、夫婦はそういうわけにはいかない場合もあるかも…と思います。yumiちゃんが言うように、お互いが望めれば、<異文化コミュニケーション>を、お互いの”文化(違い)”を認め合う話し合いができて、より絆も深まるだろうし、一人でいる時よりもステキな人生を歩めるのだろうと思います。
yumiちゃんが夫婦について形容した一文。”違いをディスカッションしたり、妥協点を探ったりできるような距離感”。私にはとっても新鮮だったのだけれど、夫婦の関係を表すのに、とってもピッタリな言葉に思いました。血の繋がった家族との距離感とも違う、友達のそれともまた違う。小さな、でも壮大な<異文化コミュニケーション>をするには必要なモノなんだなぁと思いました。
そういう”距離感”を大切にして日々生活したいな、と思います。本当、学ぶことの多い生活です。
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