先日、いとこのN君に貸してもらって、遅ればせながら『蹴りたい背中』を読みました。結構、スラスラと読むことのできる小説でした。
1人の女の子が中学生から高校生になり、教室の中で孤立していく様を描いた物語と受け止めました。高校生になって、新しいクラスメイトと知り合い、必死になって”仲間作り”を繰り広げる周囲を、非常に客観的に冷めた眼で見つめる彼女。”群れる”ことへの抵抗と、それでも、その”群れ”には属していない、属せない”1人ぼっち”であるということへのいたたまれない気持ち。なんとなく、共感できたように思いました。
私は中学校3年生でスイスから帰国しました。転校生として迎え入れてもらったクラスには、既に女の子達のグループがいくつか出来上がっていました。皆さんとても仲良くして下さる中で、しかし、どのグループも既に成熟しており、これに上手く馴染めない自分がいました。それでも、必死に皆さんの中に溶け込まないといけない、と頑張っていた自分。スイスでそうだったように、「自分は自分」で良かったのに。なぜ、あんなに必死だったのだろうと、今ならば思えます。この本を本で、そんな中学校3年生だった私を思い出しました。今では、「自分は自分」の私のまんまで、中学校3年生の時から仲良くしていただいている仲間と過ごせるようになりました。中学校3年生の時の歪な私を受け入れてくれた、寛大な仲間のお陰だと感謝しています。
このように、この小説では、自分について振り返って考えてしまうような、そんな共感できる部分があったのですが、一つ理解に苦しむところがありました。それは「蹴りたいという衝動」。この小説の「核」なのではないかと思うのですが、これがわかりませんでした。
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