この旅行の目玉とも言える『妙立寺』-人呼んで『忍者寺』-の見学に行って来ました。「忍者」とか「仕掛け」といった言葉を聞くだけでテンションが上がる私、『忍者寺』の見学とあってはウキウキし過ぎ、完全に針が振り切れていました。従い、受付の時も一番前で説明が聞けるようにと先頭を死守、ガイドさんと館内を回っている際も仕掛けを覗き込み過ぎて「危ないですよ!」と注意喚起される等、ham君は一緒にいて恥ずかしかったとのこと。失礼いたしました。しかし、お陰様で『忍者寺』ツアー、十二分に満喫させていただきました。ham君、お付き合いありがとう。
さて、この『正久山・妙立寺』は日蓮宗のお寺で、加賀3代藩主の前田利常公が1643年(寛永20年)に金沢城近くから移築したものです。当時は徳川幕府が天下統一の為、大名の謀反を恐れ、些細なことで諸大名を取り潰していた頃でした。ですから、利常公は無力を演じて幕府に安堵を与えつつも、武士が起居できる場として寺町を造り、これを隠れ蓑としました。その中で監視所の役割を持ったのが『妙立寺』だったのです。
当時は幕命で3階建て以上の建築は禁止されていました。ですから『妙立寺』も外観は2階建ての様相を呈しています。しかし、内部は4階建てで7層になっています。中2階、中々2階へと続く階段は29箇所もある他、部屋は全部で23室もあり、見学の際も、ガイドさんから離れると迷子になってしまうとの説明があるくらい、複雑な造りでした。最上階に位置している望楼は物見台としても活躍したとのことですし、また、お庭にあった大きな井戸は金沢城へ続く逃げ道になっていたと言われており、出城としての役割も果たしていたのではとの話もありました。
僧兵もしかり…ですが、『妙立寺』も加賀藩主の「祈願所」としての宗教的意味合いを持ちつつも、宗教を隠れ蓑に、武力を蓄える出城としての機関だったのです。これを思うと、宗教と争いという相反する二つのものの矛盾した共存は今も昔も変わらない、という思いが頭をもたげました。『からくり』にハイテンションになりつつも、一抹の虚しさを感じた見学でもありました。
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