2008/11/07

一年

母方の祖父の旅立ちから一年、月並みですが、月日が経つのは早いと思います。旅立ちの時から今日まで、祖父の不在を淋しく思うこともありました。一方、祖父が私の心の中にいてくれる安心感を持っていることもまた事実です。悩んだときや辛いときなど祖父に思いを馳せ、心穏やかになることもしばしば。今でも私は祖父に助けられ、また、祖父からの学びも続いています。

一年前の文章と重なる部分もありますが、今一度祖父を想い、この一年、考えたことをこの場に記します。

祖父は妻である祖母を慈しんでいました。祖母もまた祖父を大切に想っています。祖母が葬儀の席で、「親を失ったときよりも辛い…」と涙しながら私に訴えたのを思い出しますが、それ程に2人の夫婦の絆は強かったのです。祖父がいなくなり一年経とうとしている今も、祖母は食事の度に祖父の写真をテーブルに置き、祖父のお箸、お茶碗、湯のみに食事を用意し、語りかけながら食べています。祖父の生前には喧嘩をし、時には「もう離婚やっ!」と捨て台詞を言う二人でしたが、年老いてなお喧嘩が出来る程、互いにしっかりと向き合っていた夫婦なのだと思います(当時は…「いやいや…今更離婚されても…」と親戚一同のネタになっていましたが…)。夫婦が向き合い、お互いを思いやることの大切さを、今なお教えてくれる二人です。

祖父は仲間を大切にする人でした。祖父の周りには常に人が集い、笑い声が絶えませんでした。祖父は「自分史」を執筆していました。『書院』に向かって懸命にタイプする姿、今でも目に浮かびます。その「自分史」、いとこ達とペラペラ捲ると…○○年○月○日、△△誕生、◇◇年◇月◇日、○○入学と、他人に関することばかり!自分に関する事象は殆どなし!思わずいとこと「コレ、他人史やんっ!」と大笑い。そんな祖父の「自分史」ならぬ「他人史」を読んでいると、家族、親戚、友人、大切な人々がいてこその自分、そんな考えに至ります。自己形成とは社会、或いは人間関係があってこそ、つまり相対的な中にあって見出すものだ、と論じるものがあります。祖父がその理論を知っていたか今となっては知る由もありませんが、祖父の書いたものを読むにつけ、他者との関わりの中でこそ自分を見つけ、また成長させていけるのだと再確認させられます。祖父は他者に、自身の曾孫や私達孫の世代から、同年代の友人に至るまでの幅広い年代の人々を位置付けていました。自分より若く人生経験も未熟な者からも学ぼうという姿勢を持ち、常にその者の存在を尊重してくれました。その様な祖父の姿勢を私は素晴らしく思いますし、自分もそうでありたいと思います。

先日、一周忌が無事に執り行われ、納骨も滞りなく終わりました。これで祖父を形態で把握することはできません。しかし土に返った祖父は有機物として地球の一部となり、言い換えれば常に私の傍にある存在となりました。人間は生まれてきた時から、その遺伝子のプログラムに従い死へと向かいます。「その時」がいつかはわかりませんが(だから愉快に生きていけるのでしょうが)、間違いなく「その時」は来ます。しかし、「その時」までに与えられた時間があります。死ぬまで生きているわけですから、その時間を大切に、私も祖父のように常に好奇心、向上心を持ち、前を向いて進んで行けたらと思います。

0 件のコメント: